日本の美意識の原点、着物。
古来より日本人と共に歩んできた着物文化は、今では晴れ着としての印象が強く、高貴な存在に感じる人も少なくないかもしれません。
そんな現代の日本で、着物を日常着として自然に着こなす着物家の伊藤仁美さん。
着物によって人生が大きく変わったという伊藤さんによる連載第1弾は、着物との出会い、そして自分と向き合い辿り着いたという心地よい生き方。
五感が刺激された、着物との出会い
日常着として着物を365日お召しになるという伊藤さん。その姿は、肩肘張らずに着物を着こなし、上品な空気を纏った、まさに現代の大和撫子。
京都祇園の建仁寺塔頭両足院で生まれ育った環境でありながら、20代前半までは反動として洋ものに強い憧れをもっていたといいます。
当時はヨーロッパ小物を扱うアンティークショップで働き、流行の洋服に身を包みながらも、「何か私にしかできないことを漠然と探していた時期でした」と振り返る伊藤さん。
そんな中、実家の両足院で行われた祖父の法要で目にした光景に心奪われます。
お寺の法要では、色彩豊かな袈裟を纏ったお坊さんによってお経が唱えられ、木魚の音が鳴り響き、お香の匂いが漂い、美しい所作に目を奪われて、その瞬間五感すべてが刺激され、電気が走ったんです。
『なんて美しいんだろう』『なんでこんな傍にあったのに気づかなかったのだろう』と、ずっと自分の中で探していたものが見つかったような感覚でした。
幼い頃はご自身が育った環境が当たり前で、身近な日本文化の美しさにあまり気づいていなかったそうですが、改めて日本独自の美意識に触れたことで、美しいものに囲まれて育ったことを実感したといいます。
そして、タンスにあった祖母の着物の色彩の美しさや模様に感動し「これを自分で着られるようになりたい」と着付けを学びはじめたそうです。
はじめは自分の着物を持っていなかったので、祖母の着物を着たのですが、それを母や親戚中がもの凄く喜んでくれたんですよね。着るだけでこんな喜んでもらえる衣装って他にあるのかな?と思いました。
母は当時の祖母の様子を『おばあちゃんってデパートに行くだけでも着物をさらっと着ていく粋な人だったんよ』と聞かせてくれ、そういった着物に纏わる物語を聞いていくうちに、色んなお家にもあるそれぞれのストーリーを掘り起こしていくようなお仕事ができないかなと思い、着物をもっと勉強したいと思いました。
着物に触れる度に、そこに込められた想いや、世代を越えて受け継がれていくストーリーを感じることで、衣類としての役割を越えた着物独自の価値に魅了されていったといいます。
「洋服はいらない」人生最大の断捨離
着物との出会いから約10年間。着付けや所作などの着物に関するあらゆる知識を学び、その魅力への理解を深めていった伊藤さん。
30代の後半には、生まれ育った京都から、着物文化の継承を更に広めていきたいと、活動拠点を東京に移す決断をします。
そんな東京への荷造りをしていたある日、人生の転機が訪れます。
荷造りをしていた時に、洋服と着物がそれぞれ積み重なっている姿を見て、着物はたたみ揃えるとサイズが全て均一になり、その整った姿がものすごく美しく見えたんです。一方洋服は、サイズもばらばらしていて積み上げても崩れたりする、その姿は当時の自分の心を反映しているようでした。
東京では生活自体も変えてみたいという思いもあり、それを見たときに『あ、私はこっちだなぁ』と、自分の未来に明るい光が差したように思えて、洋服は今のわたしには必要ないと思いました。
それまでも週に3日は着物を着ていたといいますが、東京には洋服を持って行かずに、着物を日常着とすることを決めた瞬間でした。
削ぎ落とし辿り着いた「心地よい生き方」
そして、その決断がその後の精神的な変化にも大きく繋がっていったといいます。
何を着て、どう過ごし、何をしたいのか?
選択肢を狭め、周りを本当に必要なものだけにして、余白をつくったことで、心が気持ちよく整理されていく。
着物を着て暮らす。と決めた瞬間、気持ちがすごく楽になって、進むべき道が明確になりました。そのために必要な時間やお金の使い方が、選択肢を狭めたことで全部わかりやすくなったんです。
あと、人としっかり向き合って話せるようになりました。昔はまともに人と話しすらできなかったですから(笑)
今の凛とした姿からは想像出来ないが、以前はコンプレックスだらけだったと微笑みながら語る伊藤さん。
現在では一児の母として、通勤の自転車、お子さんとの公園遊び、時にはヨガや山登りまで、伊藤さんの暮らしには、驚くほど自然に着物が共存しています。
現代では何かと選択肢が多様になり、自分に本当に必要なもの、心から心地よいと思えるものに出会うことが難しくなってきているように思います。
そのためか、最近よく耳にするようになった、断捨離やミニマリストという言葉。それは暮らしに余白をつくることではじめて見えてくる、新たな自分との出会いの第一歩なのだと感じます。
着物を着ることで、五感が研ぎ澄まされ、ご自身の心身の状態を理解することができたと語る伊藤さん。
私は従来の形にこだわるのではなく、自分の心の声に耳を傾け、心地いいと思えるものを自分自身の形として育んでいく事を大切にしています。それが着物でなくても、その人なりの答えを見つけてもらえたらと思っています。
そんな伊藤さんの着付けサロン「enso」では、彼女の生き方に憧れる多くの生徒さんが全国から集まり、それぞれのストーリーを紡いでいます。