滝澤酒造
世界で楽しまれる日本酒を造る
深谷の杜氏が「泡」にかける夢
「お酒とは、世の中を明るくするものなんです」と滝澤酒造(株)6代目蔵元、滝澤英之さんは言います。
幼い頃は「酒蔵を継ぐのが嫌だった」という滝澤さんが、杜氏となり世界に認められる透明なスパークリング日本酒「菊泉 ひとすじ」を開発するに至ったストーリーを伺いました。
滝澤酒造の歴史
滝澤酒造は文久3年(1863年)に現在の埼玉県小川町で創業。明治33年(1900年)には現在酒蔵のある深谷市に移転しました。移転の理由は小川町で町の大半を焼失する大きな火事があったため、深谷に元々あった酒蔵を購入したとのことです。
中山道で江戸から9番目の宿場町である深谷宿にあるという地の利(滝澤酒造の蔵の前の道が中山道でした)、近くを流れる荒川という、酒づくりには欠かせない水の利を得て、滝澤酒造は大いに栄えることとなります。
中山道に面した滝澤酒造の酒蔵
酒蔵には東京駅の駅舎にも使われた、深谷のレンガが用いられている
歴史ある酒蔵には、大谷石など趣ある素材が随所に使われている
そんな滝澤酒造の6代目蔵元である滝澤 英之さんですが、幼少期にはお酒が嫌いだったとのこと。その理由としては、埼玉県の酒造組合の組合長を務めていた祖父が会合から飲んで帰ってきたときの様子が近寄り難かったこと(当時は日本酒がとても売れていた頃なので、付き合いが多かったようです)、そして酒蔵に働きに来ている出稼ぎの人が朝早くから作業するのを見て「大変だなあ」と感じたから、とのこと。
お酒と距離をおいていた滝澤さんですが、大学4年にときに漫画『夏子の酒』と出会って「酒づくりスイッチ」が入りました。漫画の中の光景が自分の子どもの頃の経験と被ったとのことで、今でも折に触れて読み返しているそうです。(余談ながら、滝澤さんの周りの酒造関係者には『夏子の酒』を読んで酒造りに興味をもった人が多いとのことです)
そうこうして1994年に大学を卒業した滝澤さんは、東京の酒造大手である石川酒造に勤めます。一升瓶換算で年間100万本をつくる大酒蔵ではたらくなか、滝澤さんは酒づくりの楽しさを感じ、成分分析の仕事を通して「甘さと酸味の絶妙なバランスを再現したい」と思うようになります。
2007年には滝澤酒造の杜氏(酒蔵の最高責任者)となり、あたためていたアイデアを実行し、スパークリング日本酒の開発に着手しますが、スパークリングも通常の日本酒も最初の1、2年は思い通りにいきませんでした。当時のことを、「前代の杜氏から変わってすぐに結果を求めすぎた」と滝澤さんは振り返ります。
具体的には、吟醸や大吟醸といった日本酒は良い香りを生むために低い温度で仕込むのですが、酵母にかけるストレスが過度になり発酵しづらくなってしまったとのこと。原料である酒米の出来にも左右され、不確定要素が多い酒づくりですが、今でも自分の仕事に100点はつけることはなく80、90点であれば「良し」、としています。
アイデアからトライアンドエラーを経た「菊泉 ひとすじ」は、ついに2019年に製法特許を取得しました。
2019年に取得した製法特許
滝澤酒造のこれから
酒蔵の朝は早く、午前6時頃から仕込み作業を開始し、午前中には終えます。年間のスケジュールとしてはお米が収穫された後の10月から仕込みを開始し、翌年4月頃まで続きます。スパークリングは3月頃から仕込みに入るとのことで、現在は通常の日本酒とうまく切り替えられていますが、当初は頭の切り替えが大変だったそうです。
一度に300kgの米を蒸す「こしき」
酒蔵の心臓部、蒸した米に麹をまぜる「麹室(こうじむろ)」
底に沈殿しているものが酵母
お酒を貯蔵するタンク
整理整頓された道具たち
今考えていることはスパークリング日本酒をさらに掘り下げること。「濁り」からはじまり透明→ロゼ、と進めてきた滝澤さんのプロジェクトは、今やその先を見据えています。具体的にはロゼの色を濃くし、もうちょっと赤いものをやろうとしているとのこと。
酒づくりの仕事で嬉しいときは、さまざまな不確定要素がありながらも概ね想像通りの酒ができたとき、そして自分のつくった酒を地元の人や友人、海外のお客さまが楽しそうに飲んでいる輪に入るとき、と話してくれました。
「日本酒には世界を明るくする力がある」と語る滝澤さん。そして、進化を続けるスパークリング日本酒「菊泉 ひとすじ」。私もいただいたのですが、細かい泡が口の中を心地よく刺激するのは本当にシャンパンのようで、それでいてお米の甘さが余韻として残る、なかなか他に類を見ないお酒です。
和洋中をはじめ様々な料理に合うこのお酒が、世界中の団らんのシーンで楽しまれる日を見据えて、滝澤さんは今日も朝早くから酒蔵に向かいます。
滝澤酒造 第6代目蔵元、滝澤 英之さん